河野宏一牧師の福音コーナー
「 こころに歌を持つ 」
癒しが流行しています。厳しいストレスに皆が悲鳴を上げている。ある精神科医が「病める“療法”社会」と題して「現代では〇〇療法という言葉が溢れている。伝統的な転地療法/絶食療法/温泉療法に始まり絵画療法/芳香療法アロマセラピー/遊戯療法‥さらにはカラオケ療法/高原の空気を吸う呼吸療法‥息をするのも教えてもらう。何としんどい社会に住んでいる事か」と記しています。
私共は、全く自然に力の入らない状態が取れたら、本当に楽だな!と思います。そして、自然体はどのような状態にも対応できる、という意味で、最も「強い」状態、とも言えます。二つの方法が聖書に記されています。
1 お任せする事です。
パウロは1コリント4章3節~4節で“私にとっては、あなた方から裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。私は、自分で自分を裁く事すらしません。~私を裁くのは主なのです”
パウロは、自分を批判的に眺め、自分を評価するのではなく、全てをお任せする、と。「私は、私の出来る範囲の中で、片意地をはらずに、ベストを尽くして、生きるようにしているのだ。私を裁く(評価する)御方は、主御一人なのだ」と言っているのです。
2 心に歌を持つ事です。
現代人の心をある人は「歌=メロディーを忘れた理詰めの心」と言います。詩編の中には繰り返し「私は主に向かって歌う」という言葉が出て来ます。心に歌のある人は何と輝きに満ちている事でしょうか。
そして、新しい歌を主に向かって歌うこと。「新しい歌」と言う表現が、聖書全体で9回(その内6回が詩編)出て来ます。では、この「新しい歌」とは何か?
・その時代、時代に生まれて歌われた歌の事‥所謂「新曲」
・新曲ではないが神への救いの驚き、感謝、感動を新たな思いで歌う歌の事。
そして、主に贖われた者(救われた者)にしか歌えない歌(讃美)の事
~すなわち~
1)待ちに待った救いが来たという歓喜の叫びと共に歌われる歌の事。
2)終末論的な讃歌の事。つまり救いの完成を見つめながら歌う歌の事。
3)救いの感謝と喜びの歌、愛の交わりの歌、信仰と希望の歌の事。
詩篇147:1 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいか
に美しく快いことか。主は打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる。
ハレルヤ!
河野宏一牧師の福音コーナー
週報に記載されている福音コーナーをご紹介しています。
「倦(う)まず、たゆまず」 2022年6月26日
「信仰生活は、無理せず、楽せず、手を抜かず」ある牧師が、バプテスマを受けたばかりの信徒に与えたアドバイスで、私も繰り返し使っております。
「生まれる」…それは本当に神秘的なこと、大きな喜びをもたらすことです。教会でもやはり新しく主を信じて、神の子として生まれる人が与えられるという事は、どんな喜びにも変えられない。天ではどんな喜びにもまさる喜びがある。今まで死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった、という大変革がそこにはある。私どもは、多くの主を知らない人々が主を知る事ができるようにと心から願っています。
しかし、その後に「育つ」ということが続く。そしてこの育つプロセスは、多くの場合ずっと長いし、地味です。必ずしも劇的な変化が毎日起こっていくのではありません。毎朝、主の前に近づき、静まり、御言の中にとどまる、そんな繰り返し、毎週礼拝を守り、兄姉の交わりの中にときを過ごす、そんな積み重ねが、キリスト者を作っていくのです。
「キリスト者には転機が必要だ。」と言います。聖書人物たちの実例も、偉人の生涯の証しも、その事を物語っています。確かに、主が私たちに悔い改めを、献身を、信仰を迫られる時に大胆に踏み出すべき、ここぞという時があります。
しかし、転機だけで信仰を育てることができるだろうか。もし転機しかなかったら、やけにバランスの悪いキリスト者しか生まれてこないでしょう。
わたしたちに必要なことは「今日歩む一歩は、必ずしも昨日と大きな差がないかもしれない。しかし、それが一ヶ月二ヶ月、一年二年と積み重なっていくときに、大きな違いになっていく。キリストの似姿を映すようになり、その品性が備わっていく」ことに信頼を置くこと。
それは主とともに歩み、信仰の先輩たちとともに時間を過ごす中で形作られるものなのです。私たちは一生変えられ続けていく。地道に変えられ続ける。やがて主の御前に立って、そのみ姿を見、その似姿に変えられるその日まで、私たちには終わりはありません。信仰良書に触れたり、修養会に参加したり、またさまざまな学びを積み重ねていく。神は求める者に答えてくださる。与えてくださる。
”あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。”(パウロの言葉)
「天を見上げて地上を旅する」 2022年7月3日
「さあ、天を見上げなさい。星を数える事が出来るなら、それを数えなさい‥あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)
この御言葉から二つの事を確認しましょう。
第一に、天を見上げて生きていくように人間はデザインされている事。
ギリシア語で人間を意味する「アンスロポス」には「上を見上げる」と言う意味があります。自分の内側を見ても、横を見て人と自分を比べても、暗くて頑固で厳しくなり、うつむく事しかできません。
上を向いて歩いていくとき、明るく柔和で優しい人に変えられます。人間は上を見上げて生きていくようにデザインされているからです。天を見上げる一番、楽な方法は仰向けになる事です。朝目が覚めた時、そのままに、仰向けで天を見上げればよいのです。天を見上げて主を待ち望むなら、新しく力が与えられ、元気に起き上がる事ができます。
第二に、天(国)とは、どんなところか?天(国)は賑やかなところです。天国にはあまりたくさんの人はいないというイメージを持っている方が多いのではないでしょうか。しかし、全知全能の神は、そのような私たちの不信仰を突き破って、数えきれない人々を天国に招かれます。星の数ほどの人びと、誰にも数える事の出来ない人々を神は救いに招かれています。
私は信じます。天国は賑やかなところです。神の言葉は、私たちの不信仰を突き破って、時が来ると出来事になる、と。私は信じます。万軍の主の真実と熱心によって注がれる聖なる神の霊によって、青年は幻を見、老人は夢を見、そして、私たちの教会に行列ができる事を。
この御言葉は、北極星のように不動です。ですから、この御言葉を指針とし、天を見上げて地上を旅するなら、確かな方向性を以もって旅ができます。現代の多くの過ち、その多くは、天を見上げることをしない、あるいは、忘れてしまい、目先の事に囚われて見るべきものを見失ってしまったことにあります。
そのような私たちには、閉塞感を突き破る神の言葉たる、北極星のように変わらない確かな御言葉が必要なのです。