「祈り」

(朝の祈り)

神さま、朝を与えて下さってありがとうございます。今日、一日、元気よく、明るく生活できるようにお守りください。間違った事や悪い事をしないように導いて下さい。正しい事や良い事には勇気をもって進んでする事ができますように力を与えて下さい。

 このお祈りをイエス様のお名前によって祈ります。 

〇朝食・昼食前の祈り

 我が家の子どもの高校入学のオリエンテーションの時、教頭先生が三つのお願いをされました。学校の先生の悪口を言わない。朝食は必ず食べる、弁当はできるだけ手作りで、と。三つのお願いの内、二つが食事に関する事です。食事は人間形成にとって大切な事です。しかし、信仰的にも、そうです。

「主の晩餐式」はイエス・キリストを中心とした食事会の事であり、「交わり」も食事を共にする集会です。単なるエネルギー補給ではありません。命をいただくという信仰的な業です。

(朝食前の祈り)

 恵み深い父なる神様、今朝もここに私たちの生活に必要な充分な肉の糧を与えてくださり、心から感謝します。これによって、今日ひと日も、主に喜ばれる生活と奉仕が全うされますように、お守りください。あなたは常に、私たちに必要な一切のものを備えて下さいます事を感謝いたします。

 願わくは、食卓の中心におられる主よ、私たちが共に心を開き、主にある感謝と喜びの交わりを深めていく事ができるようにお願いします。また、今も貧しさの中におられる人々を憐れみ、なくてはならない必要を備えて下さい。

養い主イエス・キリストの御名によって祈ります。

(昼食前の祈り)

 命の与え主なる神よ。今ここに豊かなる昼食を備えて下さった事を感謝します。あなたは霊と肉との主でいらっしゃいます。どうか、この豊かな恵みに応えて、自分の事だけでなく、進んで他の人を愛し、また、地上の任務を果たす事ができますように、お導きください。

 願わくは主よ、私たちが常にあなたによって力づけられ、養われ、守られて、思い煩いを捨てて、安全に仕事(勉学)にいそしむ事ができるようにしてください。残された半日も、常に主にある喜びにあふれ、主の前を、主と共に歩む事ができるようにして下さい。

この昼食を感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 

 

「神を畏れることは知恵の始まり」

 

 “アメンボ・キッズ”という言葉をご存知でしょうか。現代の青少年を表現する新語で、与えられた大量の情報をスイスイと器用に泳いでいる様をイメージする言葉です。

 

アメンボとはよく言ったものです。そのか細い体つき、軽さ、決して水の深みにまでは潜ることはしません。したがって、おぼれることはありません。大人ならばおぼれてしまいそうな大量の情報を必要な部分のみ探りをいれて利用する。

 

 情報が多いということは、選択枝も多いということを意味します。そこに労力が必要となりますが、さらに、そこには、その大量の情報を処理するための攻略本(いわゆるマニュアル)が威力を発揮します。できるだけ労力をかけずに正解を見出す。

 

 ですから、選択枝が多いとは言え、アメンボ・キッズは、その多くの選択枝から自分で決断し、自分で選び取っている、というわけではありません。結局は与えられた選択でしかないのです。

 

 ある社会学者は、そのような若者が生まれることを評価します。「全ての物事が相対化された時代」に生きる知恵である、と。その上で、「知識」と「知恵」を峻別します。知識は、情報を意味します。そして、知恵とは、その情報を整理整頓し、自分にとっての意味を付与する機能です。そして、知恵は、結局試行錯誤(trials and errrors)によってしか、つまり、試み、そして、失敗する事によってしか身につかないものです。

 

〈アサギマダラのお話〉

 アサギマダラは、春に北上し、秋に南下を繰り返す「渡りをする蝶」として知られています。研究のため山形県蔵王山で放たれたアサギマダラが日本最西端の与那国島で捕獲されました。何とその移動距離は、約2246㎞。

 

 蝶は風に乗り、大空を飛び、人の思いを遥かに超えた旅・長距離移動をします。聖霊は「風」にたとえられます。私たちキリスト者は、聖霊に助けられ、運ばれ、様々な出来事を乗り越え、人知を遥かに越えたところへと旅する者です。

 聖霊の風に乗るには何が必要でしょうか?自分の古い習慣に土台を置くのではなく、神の言葉に置く事です。御言葉によって培われる力を得る事です。

 

 表題の「神を畏れることは知恵の始まり」は箴言1章7節の言葉です。現代を生きる指標としての信仰の大切さを思わされます。 

「エルサレム使徒会議の意義」

 使徒言行録15章は、教会史上初の教会会議と言われる「エルサレムの使徒会議」について記されています。内容としては、アンテオケ教会とエルサレム教会の代表者たちが初めて一同に会して、両教会の協力体制構想を巡って協議し、一定の結論を得た会議と言って良いと思います。会議を開くキッカケとなった出来事は~「ユダヤから下って来たある人々」が、上から目線=本家意識丸出しで分家の異邦人中心のアンテオケ教会に「あなた方も、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、救われない」と。その事をめぐって、激しい論争
が生じた、と言う事です。
実際のところは、これまでにも幾度となく生じた論争であります。割礼の問題。律法をめぐる神学的な課題。どこかでハッキリとさせておかなければ、先に進まない。そこで代表者たちが集まり「協議するために集まった」訳であります。 時代の大きな変わり目、国際会議が事あるごとに行われます。しかし、そこでは、おそらく私たちが知りえない水面下での政治的な駆け引きが繰り返されているのだろうと推測します。「協議する」と言っても初めから、結論ありきに思えますし、また、時には数・力の論理で意見・異見を封じ込めるやり方さえ「ルールに則っている」と言われます。
 私たちバプテスト教会は、まさに会議を大切にする教会です。小さな会議に始まり、連合、連盟の総会に至るまで、私たちは会議を通して教会形成を成しているとも言えます。だからこそ、私たちが教会で、どのような質の会議を開いているかが問われます。そして、その時、ヒントとなるのが「協議する」と言う言葉が「イデイン:見る」と言う言葉から生まれ「見極める」という意味を含んでいる事です。使徒や長老たちは、問題を「見極める」ために集まった。神の御心がどこにあるのかを見極める事に他なりません。
「私たちは、これまでこうやって来た!」「私たちはこう考える」という意見を交わす中で、一体神様は、今、何を求めておられるのか?神の御心を見極める事に苦心する事こそが、会議において重要な事です。 そして、使徒言行録のこの会議の後15章36節から「世界宣教の時」という第二部に突入します。すなわち、福音が初めて、地中海を越えて、
ヨーロッパ世界へ至るのです。
 教会の宣教の営みには躓きが満ちています。プロテスタント教会の歴史は分裂の歴史であると言っても過言ではない、と思います。激しい対立と分裂。私たちにとってマイナスと思えるような出来事であり、悩みに直面させられます。しかし、そのような人間の営みを越えて、神の導きの中で、教会の宣教は導かれ進んでいるのです。その事を大切にしたいものです。 


「“いちじく桑”そして“祈りの手”」


聖書の中に、いちじく桑の木に登った徴税人ザアカイがイエス様と出会うというお話しがあります。もし、このいちじく桑がなかったら、ザアカイは、イエス様を見ることもなく、声をかけられることもありませんでした。いちじく桑の木に登るザアカイですが、そこに、いちじく桑を、その日のために育て、その場所に置いてくださったのは神様です。 

 

私たちがイエス様と出会う時に登っている、いちじく桑の木とは何でしょうか。私たちは毎週日曜日に神様に礼拝を献げています。けれども、私たちがここに集っているこの場所に教会があるということは、そこにいちじく桑の木にたとえることのできるような、神様の導きがあることを思います。 

 

イエス様はザアカイに、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言いました。恐らく、ザアカイは、泊めるような準備など、何も出来ていなかったでしょう。イエス様と出会うこと、迎えるということは、何か、私たちが準備をして待つということではないのです。 

 

神様の時の中で、「失われたものを捜して救うために」いちじく桑の木は育てられ、その時を待っていたのです。待っているのは、常に神様です。その神様の時を、ザアカイはいただいたのです。 

 

デューラーの描いた絵画に「祈りの手」というものがあります。絵描きを目指す友人が、デューラーを一人前の画家にするために、自分は鉱山で働き、仕送りを続けた。そのおかげで、デューラーは立派な画家になるのですが、友人は、その過労で、手を悪くし、絵筆も握れなくなりました。

 

デューラーはその事を知った時、友人に「お願いだ、君の手を描かせてくれ、君のこの手のおかげで今の僕はあるんだ。君のこの手の祈りで、今、僕は生かされているのだ」そう言って、自分のために犠牲を払って働き続けてくれた友人の手、彼はカンバスに焼き付けたのです。それが「祈りの手」です。

 

私どもも、私どものために祈り、献げて下さった方々の手があったからこそ、救われ、今あるを得ています。私どもキリスト者の背後には必ず「もう一人の方」がいるのです。沢山の祈りの手が必要です。

 

 「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。…人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』」 (ルカ19章9~10節) 


「故北原末男さんの遺稿より③」

 
〇「礼拝の意義」
真に神を信じ、神を基礎とする生活は自ら神を礼拝する。真の信仰生活
は、間断なき礼拝の生活である。そのために、まず神の実在を確信し、礼拝の対象の価値を知らねばならぬ、即ち、キリストによって自己を顕し給うた神のみ我らの礼拝の対象である。この礼拝精神は、必然的に形となり、キリストを中心とする聖徒の交わりは自ら公同礼拝となって現れる。この公同礼拝は、我らの特権であり、義務である。而して、公同礼拝は
教会精神のバロメーターである。礼拝の場所たる会堂は説教を聞くところではなく、神を礼拝するところであって、説教は礼拝の一部であって全部ではない。我ら心を盡し、霊と真を以って神を拝せん。

〇「祈祷会の意義」
使徒言行録を読むと、初代教会の人々が、一つ所に集まって、心を合わせて、ひたすら祈りをしていたことを伝えている。そして、これは初代教会の大きな特色である。祈祷は個人の信仰生活にとって、肉体が食物や空を必要とするごとく、なくてはならぬもので、「教会」の信仰生活にと
っても祈祷はなくてはならぬものである。主キリストを中心とし、共に祈り合うところにこそ、真の教会がある。
祈祷会は、主にある信者の一致ということから重要で、主はそのために、祈り執成し給うのであります。(ヨハネ17:11~22)。祈祷会は、主に於いて、心を合わせて祈り合う精神の具体化したもので、私どもは、真の意義で教会を重んじます。祈祷会は、我らの恩恵であり、また、責任であります。

*参考聖書個所 使徒言行録
1章14節 2章37節~42節 4章31節 6章4節 等
〇「今日の宣教」宣教一途
「全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えよ、信じてバプテスマを受ける者は救われる」宣教は、イエスの御命令である。我らは、これに従わねばならぬ。弟子
たちは、出て行って至るところで、福音を宣べ伝えたとある。宣教の場合、確信が必要である「あの方が罪人であるかどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲人であったが、今は見えると言うことです」と、一人ひとりイエスの恵みに対して確信を持ち、臆することなく、宣教せば、主も共にいまして、お約束を堅持し給うであろう。


「故北原末男さんの遺稿より②」

 
④時間について。
時間は余裕をもって、遅刻はせぬようにしたいものです。遅刻は、他の
人の妨げとなるばかりか、礼拝全体の緊張を破り、やがて、自分自身、悪
習慣に堕するようになる。 
それでは、どうにか行けるが遅れるのはいけないから、いっそ、欠席し
よう等を言う人がいる。しかし、その人は遅れても出席する方が良い。こ
こでは、遅れぬようにすれば出来るものを努めないで、遅刻することを言
っているのである。
⑤礼拝の中心である宣教に接する態度について考えてみましょう。
 まず、真の期待を以って、即ち、聖言を期待して接することは言をまた
ぬことです。間違った期待を以って宣教に接しても無意味ですし、宣教に
聖言以外のものを期待して、しかも得られぬと言って呟き、教会を離れた
りすることは、八百屋へ魚を買いに行ってなかったと憤慨すると同じく無
茶であり、我儘であり、非常識です。
 真の宣教、難しい課題です。真の宣教の勤めに与るには、まず宣教者自
らが、その方の前に立っていなくてならない。単なる牧師の意見発表や講
演とは異なるのです。期待を以って宣教に接する。それは、即ち、傍観者
として、見物人として宣教を聴いても何にもならない、と言うことです。
 次に、宣教に対しても「信仰的な準備」すなわち、行き当たりばったり
の聴き方をするのではなく、祈り心で備えをして聴くべきでしょう。準備
なくして宣教は徹底しないのです。
⑥次は、最も重要なことと思いますが、宣教を「私への言葉」として聴く
ことは、大切なことです。宣教は誰にでもなく、実に私に向かって宣べら
れており、宣教においてかたられる聖言は、誰でもなく、この自分の生き
死にに関する聖言として聴かるべきで、そこで裁かるる罪は自分の罪であ
り、そこで赦しの言を受けている罪人は自分であります。
⑦会衆の中には、宣教者よりも、もっと博識のまた、深い人生経験を持つ
人は多いと思う。あるいはまた、宣教者の中には、口の重い、話すことの
下手な、話の内容も秩序を欠くような者もおります。
  しかし、それらの人間的優越によりて、傲慢になることなく、
「実れば実るほど、垂る稲の穂」の謙遜さを以って、宣教に接したいものです。謙
遜に求むる者には、ただ一つのことも導かれて感謝できるのであります。 (続く)


「故北原末男さんの遺稿より」

 故北原末男さんが、生前、特伝や講演会等のために執筆していた遺稿か
ら、三回に分けて紹介します。故人の信仰、人となりが伺えます。
「礼拝への心遣い」
 私どもは、真にキリストとの交わりがなされるのは教会に於いてのみと
信じます。そして、教会に於いて最も重要な神の言が宣言され、恵みが鮮
やかに示されるのは礼拝であります。私どもの行っている礼拝が単に説教
のみに偏することなく、真の礼拝として守られるために、即ち、「説教を
聞く」のではなく「礼拝を捧げる」ために、私どもは次のような点を謙虚
な思いで反省しつつ神の前に立ちたいものです。
 
まず私どもは礼拝への準備をせねばなりません。その中で最も大切なも
のは、1 信仰的準備でしょう。聖日の朝、あなたは良く祈り、聖書を読んで礼拝に
備えねばなりません。その祈りの中に、ぜひ次の事を祈っていただきたいもの
です。
(イ)説教者のため (ロ)自らのため(ハ)教友、および、求道者のために。
これだけの準備を以って礼拝に列するならば、その時、あなたにとって、どれだけ
感謝な礼拝となるでしょう。出来得れば、少なくとも五分前には、信仰的な準備が済んでいたいものです。そして、聖日くらいは、礼拝前に、新聞・小説等を読むことをやめ、その時間を聖書を読むことにすべきでしょう。
2 聖書と讃美歌についても心を配りたいものです。
   まず、聖書と讃美歌は自分のものを持参することです。教会に備え付けてあるものは、    初めて来た人のために用意されているものであって、信者は遠慮すべきです。面倒とか重いと言うことは怠け者の言葉で、聖書の借り物をしていると信仰も借り物になるでしょう。 
また、重くても旧新約聖書を持参して使用したいものです。教会で聖書という時、旧新約聖書のことです。新約聖書だけで間に合わしていることは悪い習慣です。 
 
3 服装は形式的にあれこれ言うべきものではありません。むしろ、家庭の主婦が
  エプロン掛けのままでも集まれる教会でありたいものです。唯、余り華美
  やだらしない服装は慎むべきでしょう。要するに、その人が活ける、聖な
  る、人格者なる神の御前にあるために最もふさわしい身なりで礼拝したい
  ものです。(次週に続く) 


「兎と亀」

日本の昔話に兎と亀の話があります。兎と亀が「向こうの小山の麓」をゴールに、かけくらべする話です。だれが考えても兎が勝つところですが、兎は、どうせ亀は追いつけまいと余裕の一眠りをしてしまいます。結果、兎と亀の距離はどんどん縮まり、ついには、亀が兎を追い越して勝ってしまったという話です。どうしてそんなことになったのでしょう。

兎が怠け者だったからとか、自己過信があったとか…。しかし、何を目標としていたかということも、大切だと思います。
兎の目標は亀に勝つことでした。だから、亀がどのくらいのペースで、今どこにいるか、ということばかりを考えていました。しかし亀の方は、兎に勝てるはずがありませんから、目標は、あくまで「向こうの小山の麓」まで完走することだったわけです。
 どうも私たちは、この兎のような感覚をもってしまうことが多いようです。目標に向かって走っていくというより、まわりがどうであるかということに左右されます。まわりばかりが気になって、本来、完走すべき道のりを走ることができなくなってしまうのです。
 私たちはすぐに人と比べたがる癖をもっています。すぐに批判的になってみたり、逆に劣等感に悩んでしまうこともあります。いつのまにか、ゴールを目ざす生き方ではなく、まわりの存在が自分の目標にすり替わってしまい、一喜一憂していることが多いのです。
 パウロはこう言っています。“兄姉たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです” (ピリピ書3章13~14節)
私たちの人生は、永遠の天の都というゴールを目ざす生涯なのです。後ろのものを忘れ、一歩ずつ前に進む人生なのです。亀のように歩むのがゆっくりでも気にしないことです。

 「なんと歩みの遅い人」と言われようが、大切なのは、イエス・キリストが私とともに歩み、一緒にゴールをしてくださるということをしっかりと信頼し、歩むことなのです。
 

「二人の大統領」

 旧聞になりますが、2016年に二人の大統領が来日されました。一人はオバマ大統領。もう一人はムヒカ前大統領です。
オバマ大統領は、現職の米大統領としては初めて広島市を訪問し、平和記念公園で献花。その演説で、原爆の被害に向き合う言葉を繰り返されました。演説に立ち会った被爆者とも笑顔で言葉を交わされました。特に、異例だったのが、犠牲者についてのくだりで「韓国・朝鮮人」「アメリカ」についても言及したことです。
先立つ四月「世界で最も貧しい大統領」と言われる南米のウルグアイ前大統領ムヒカ氏が来日されました。ムヒカ氏は、青年時代に平等な社会を夢みて政治活動、投獄4回、脱獄2回。銃撃戦で6発撃たれて重傷を負い、10年の軍の独房暮らしも経験。孤独で何もない中でも、抵抗し続け、生き延びることができたのは「人はより良い世界をつくることができる」という希望があったからであり、そして、孤独を嘗め尽くしたからこそ「人は独りでは生きていけない。家族や親しい人と過ごす時間こそが、生きるということ。孤独は人生で最大の懲罰」と悟った、と発言されています。
環境問題を話し合う国際会議でムヒカ氏は「根本的に見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだ」「石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。」と発言。
さらにムヒカ氏は現代のグローバリズム、消費主義社会に対して「現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです」と語り、「残酷な競争で成り立つ消費主義社会で『みんなの世界を良くしていこう』というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?」と問いかけ「私たちは発展・競争するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです」と指摘します。 
はからずも、世界の大国アメリカ合衆国と南米の発展途上のウルグアイの前大統領がこれからの世界の歩むべき方向性を私たち日本人に示してくださいました。
“平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる” (マタイ福音書5章9節)

河野宏一牧師の福音コーナー

  「 聴くことについて 」


イエス様は「私の愛する子」と呼ばれた御父に聞きつつ、祈りつつ昼夜を過ごされました。その御声をイエス様が耳にしたのは、ヨルダン川から上がった時(ルカ3:22)。また、その同じ声を山の上でも聞かれたのです。
「すると『これは私の子、選ばれた者、これに聞け』という声が雲の中から聞こえて」(ルカ9:35)。
 神から愛されているという信頼によって、イエス様はこの世界へ、自由に歩み入る事ができたのです。
人々はイエス様を賞賛し、「ホサナ」と叫びました。しかし一週間後には「十字架につけろ」と叫びました。しかし、これらの叫びの只中でイエス様は一つの事を知っておられました。「私は愛されている子、わたしはに喜ばれているのだ」と。
 神と、神のみと共にいる事が(場が)私たちにとって、どうして必要なのでしょうか。それは、私たちを愛する子と呼んで下さる方の御声を聞く事が出来る場所だから大切なのです。イエス様が愛されているように、私たちも愛されているのだと。あの同じ御声が私たちの為にもある。
私とは何か?誰か?「愛されている子ども」です。私たちが、その御声を最も深い真理として聴くという事を確立しなければ、私たちは、この世界で自由に歩く事が出来ません。しかし、この聴くという事は、容易ではありません。イエスは夜を徹して祈られました。
祈り、その理由は何か?祈りたいと感じるから、あるいは、祈りが大き洞察を与えてくれるからではなく、ただ従順でありたいから、私たちを愛する子と呼んで下さる御声を聞きたいからなのです。
この世界に生きる本当の自由は、私たちが愛されているという自分の存在についての真理を、ハッキリと聞く事から始まります。そこに祈りが不可欠なのです。
そしてまた、宣教の業もここから始まるのです。愛されているので、私たちは、この世界に出て行き、人々と語り合い、そして、その人々にも愛され、選ばれ、祝福されているのだと気付いてもらいたい。いかに自分たちが深く愛されているかを知れば知るほど、人間としての兄弟姉妹たちが、いかに深く愛されているかが、いっそう分かるようになるという事は、神の愛の信じがたい奥義です。
 私たちは祈らなければなりません。私たちを「愛する子」と呼んで下さる御声を聴かなければなりません。

河野宏一牧師の福音コーナー

  「 こころに歌を持つ 」

癒しが流行しています。厳しいストレスに皆が悲鳴を上げている。ある精神科医が「病める“療法”社会」と題して「現代では〇〇療法という言葉が溢れている。伝統的な転地療法/絶食療法/温泉療法に始まり絵画療法/芳香療法アロマセラピー/遊戯療法‥さらにはカラオケ療法/高原の空気を吸う呼吸療法‥息をするのも教えてもらう。何としんどい社会に住んでいる事か」と記しています。
 私共は、全く自然に力の入らない状態が取れたら、本当に楽だな!と思います。そして、自然体はどのような状態にも対応できる、という意味で、最も「強い」状態、とも言えます。二つの方法が聖書に記されています。

1 お任せする事です。
パウロは1コリント4章3節~4節で“私にとっては、あなた方から裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。私は、自分で自分を裁く事すらしません。~私を裁くのは主なのです”
 パウロは、自分を批判的に眺め、自分を評価するのではなく、全てをお任せする、と。「私は、私の出来る範囲の中で、片意地をはらずに、ベストを尽くして、生きるようにしているのだ。私を裁く(評価する)御方は、主御一人なのだ」と言っているのです。

2 心に歌を持つ事です。
現代人の心をある人は「歌=メロディーを忘れた理詰めの心」と言います。詩編の中には繰り返し「私は主に向かって歌う」という言葉が出て来ます。心に歌のある人は何と輝きに満ちている事でしょうか。
そして、新しい歌を主に向かって歌うこと。「新しい歌」と言う表現が、聖書全体で9回(その内6回が詩編)出て来ます。では、この「新しい歌」とは何か?
・その時代、時代に生まれて歌われた歌の事‥所謂「新曲」
・新曲ではないが神への救いの驚き、感謝、感動を新たな思いで歌う歌の事。
そして、主に贖われた者(救われた者)にしか歌えない歌(讃美)の事
~すなわち~
1)待ちに待った救いが来たという歓喜の叫びと共に歌われる歌の事。
2)終末論的な讃歌の事。つまり救いの完成を見つめながら歌う歌の事。
3)救いの感謝と喜びの歌、愛の交わりの歌、信仰と希望の歌の事。
詩篇147:1 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいか
に美しく快いことか。主は打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる。

 ハレルヤ!

河野宏一牧師の福音コーナー

週報に記載されている福音コーナーをご紹介しています。

「倦(う)まず、たゆまず」 2022年6月26日

 

「信仰生活は、無理せず、楽せず、手を抜かず」ある牧師が、バプテスマを受けたばかりの信徒に与えたアドバイスで、私も繰り返し使っております。

「生まれる」…それは本当に神秘的なこと、大きな喜びをもたらすことです。教会でもやはり新しく主を信じて、神の子として生まれる人が与えられるという事は、どんな喜びにも変えられない。天ではどんな喜びにもまさる喜びがある。今まで死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった、という大変革がそこにはある。私どもは、多くの主を知らない人々が主を知る事ができるようにと心から願っています。


 しかし、その後に「育つ」ということが続く。そしてこの育つプロセスは、多くの場合ずっと長いし、地味です。必ずしも劇的な変化が毎日起こっていくのではありません。毎朝、主の前に近づき、静まり、御言の中にとどまる、そんな繰り返し、毎週礼拝を守り、兄姉の交わりの中にときを過ごす、そんな積み重ねが、キリスト者を作っていくのです。 


「キリスト者には転機が必要だ。」と言います。聖書人物たちの実例も、偉人の生涯の証しも、その事を物語っています。確かに、主が私たちに悔い改めを、献身を、信仰を迫られる時に大胆に踏み出すべき、ここぞという時があります。

 

しかし、転機だけで信仰を育てることができるだろうか。もし転機しかなかったら、やけにバランスの悪いキリスト者しか生まれてこないでしょう。

 

わたしたちに必要なことは「今日歩む一歩は、必ずしも昨日と大きな差がないかもしれない。しかし、それが一ヶ月二ヶ月、一年二年と積み重なっていくときに、大きな違いになっていく。キリストの似姿を映すようになり、その品性が備わっていく」ことに信頼を置くこと。


 それは主とともに歩み、信仰の先輩たちとともに時間を過ごす中で形作られるものなのです。私たちは一生変えられ続けていく。地道に変えられ続ける。やがて主の御前に立って、そのみ姿を見、その似姿に変えられるその日まで、私たちには終わりはありません。信仰良書に触れたり、修養会に参加したり、またさまざまな学びを積み重ねていく。神は求める者に答えてくださる。与えてくださる。

 

”あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。”(パウロの言葉)

 

 

 

 

 

 

 

「天を見上げて地上を旅する」 2022年7月3日

 

「さあ、天を見上げなさい。星を数える事が出来るなら、それを数えなさい‥あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)

 

この御言葉から二つの事を確認しましょう。

 

第一に、天を見上げて生きていくように人間はデザインされている事。

 

ギリシア語で人間を意味する「アンスロポス」には「上を見上げる」と言う意味があります。自分の内側を見ても、横を見て人と自分を比べても、暗くて頑固で厳しくなり、うつむく事しかできません。

 

 上を向いて歩いていくとき、明るく柔和で優しい人に変えられます。人間は上を見上げて生きていくようにデザインされているからです。天を見上げる一番、楽な方法は仰向けになる事です。朝目が覚めた時、そのままに、仰向けで天を見上げればよいのです。天を見上げて主を待ち望むなら、新しく力が与えられ、元気に起き上がる事ができます。

 

 第二に、天(国)とは、どんなところか?天(国)は賑やかなところです。天国にはあまりたくさんの人はいないというイメージを持っている方が多いのではないでしょうか。しかし、全知全能の神は、そのような私たちの不信仰を突き破って、数えきれない人々を天国に招かれます。星の数ほどの人びと、誰にも数える事の出来ない人々を神は救いに招かれています。

 

 私は信じます。天国は賑やかなところです。神の言葉は、私たちの不信仰を突き破って、時が来ると出来事になる、と。私は信じます。万軍の主の真実と熱心によって注がれる聖なる神の霊によって、青年は幻を見、老人は夢を見、そして、私たちの教会に行列ができる事を。

 

この御言葉は、北極星のように不動です。ですから、この御言葉を指針とし、天を見上げて地上を旅するなら、確かな方向性を以もって旅ができます。現代の多くの過ち、その多くは、天を見上げることをしない、あるいは、忘れてしまい、目先の事に囚われて見るべきものを見失ってしまったことにあります。

 

そのような私たちには、閉塞感を突き破る神の言葉たる、北極星のように変わらない確かな御言葉が必要なのです。