「下に根を張り、上に実を結ぶ」

イエス様は、良い木は良い実を結ぶと言われました。良い実を付けている木は、良い木だとわかります。「良い木は良い実を結ぶ。」実というのは、中身があるというあらわれです。しっかりと私たち一人一人が、御言葉を蓄えているという中身です。一人一人の中に神様による御言葉が、平和、温かさが心に詰まるようになってこそ、お一人お一人の実りある人生
、実のある信仰生活を送る場となってこそ、中身=実りがはっきりと見えてくるのです。  
また、花は見るものですが、実は食べるためのものであり、与えるためのものです。実は栄養になり、力になります。信仰生活は自分のため、自分の幸せのためだけのものではなく、この教会を通して他の人達が幸せになる事が大切です。
 
教会がこの地にあること、地域に貢献し、多くの人々に好意を持たれますように!多くの救われる人々を仲間にすることができますように! 
そして、実は種となります。すなわち、実は次の命を生み出します。そして、大切な事は実を結ぶには、地に根ざした根が必要です。実を決めるのは、目に見えない根です。目に見える部分を豊かにするためには、目に見えない根の部分をいかに大切にするかがカギとなります。
では目に見えない部分とは何か?それは、心の内にある信仰です。この教会はどうして始まったのか、与えられたのか。「ここにバプテスト」には1952年インマヌエル宣教師によって、高知伝道が開始され云々とあります。しかし、本質は、それは神様の計画であり、神様から与えられたもの、主の熱心がこれを成し遂げてくださったという事です。神様が、志と夢を与えてくださいました。
根は養分を吸い上げます。荒野の中の木は、水脈を捜して掘り進む長大な根を持ちます。根を張るのに時間はかかるものです。根を張って、養分を吸収して、そして幹が成長して、時が来るとしっかりとした実を結びます。私たちはしっかり聖書を読み、デボーション・分かち合いをし、こんな楽しい交わりはないという教会を造ることが大切です。神様に養われる
事なしに教会の成長は望めません。
イエス様は「地に落ちて死ななければ、多くの実を結ぶことはない」と言われました。私たちはイエス様が死んでくださった事による集まりです。そして私たちは、イエス様と共に死んでゆく者たちの群れです。その事によって新しい命が生み出されるのです。イエス様は、「もし死ねば、多くの実を結ぶべし」と言われました。尚々、高知伊勢崎キリスト教会が、
この伊勢崎の地にしっかりと根付き、多くの実を結ぶ祝福された教会となりますように!

2月4日 「詩二つ 感謝一つ」

 〇イブ礼拝の時に紹介した詩です。
クリスマスの意義を簡潔にまとめています。
“キリスト ベツレヘムに生まれたもうこと 千度におよぶとも
キリスト 汝が心の内に生まれなば 魂は 尚 うち捨てられてあり”
“十字架のみ 汝(なれ)をすこやかにせんに、ゴルゴタの丘が十字架 
汝が心の内に立てられずば 汝が魂は とこしえに失われてあり”
(ドイツ宗教詩人アンゲルス・シレジウス(1624-1677))
***************
~ナラの木(読み人知らず)~
昼となく夜となく、たいそう強い風が吹きました。
ナラの木の全ての葉っぱを吹き飛ばし、枝をびゅんびゅんと揺らし、
木の皮も引きはがす程でした。他の木はみんな倒れてしまいました。
そして、ついにナラの木も丸裸になってしまいました。
しかし、それでもナラの木は地面にしっかり立っていました。
くたびれてしまった風はあきらめて言いました。
「ナラの木よ、どうしてまだ立っていられるのだい?」 ナラの木は言い
ました。
「あなたは私の枝を折る事も、全ての葉っぱを吹き飛ばす事も、枝を揺らす事もできます。しかし、私には大地に広がる根っこがあります。私が生まれた時から少しずつ強くなりました。あなたはこの根っこには決して触れる事はできません。分かるでしょうか。根っこは私の一番深い部分なのです。実は今日まで私はよく分かっていませんでした。
自分自身がどれだけ物事に耐えられるかを。しかし、今、分かりました。
私は、自分が知っていたよりももっと強くなったのです。」
 3/11から月日を経て、今年も元旦から多くの災害が世界を襲いました。
しかし、私たちも根を張って、なお、粘り強く立ち続け、祈り、応援する者でありたい。

************
 環境を超えた感謝
1) 喜びだけでなく、悲しみも 
2) 成功だけでなく、失敗も
3) 問題に悩まされていることに、 
4) たとえ解決しなくても
5) 豊かな時も、足りない時も 
6) いらだたせる人にも
7) 天候が悪いことにも 
8) 思った通りにいかないことにも
9) 健康だけでなく、体の痛みにも 孤独なことにも
10) 命だけでなく、死にも

「いやし(癒し)を求める社会」

 最近、テレビで「〇〇系」という言葉をよく耳にします。「なごみ系」「おわらい系」などです。特に世間では「いやしブーム」とも言われ「いやし系」のタレントや「いやしグッズ」がドンドン出て来ています。な「いやし」がブームになるのでしょうか。それは、一人一人が心に傷を持っていて「いやされたい」と願っているからなのです。
 ある人が「生きる事は傷を受ける連続である」と、言いました。人間は確かに人生を送っていると、様々な心の傷を受けます。人間関係、リストラや受験失敗などの挫折の傷、事故や災害などによる予想もしなかった傷、そして、病や親しい者の死による傷です。
 人間は、このような心の傷を受けて行くと「いやし」を求めて三つの行動を起こす、と言われます。
1 「相手を攻撃していやされよう」とします。特に自分より弱い者に当ります。いじめや虐待などは、その典型です。
2 「自分自身を攻撃していやされよう」とします。自己卑下や自己破壊等がその典型です。
3 「欲望を満たしていやされよう」とします。賭け事、酒、たばこ、薬物にのめり込んだり、異性関係、衝動買いなどがその典型です。
しかし、これらによっては「本当のいやし」は決してありません。逆に心の傷を深くするだけです。 
 サムエルの母ハンナは子どもがなく、その事でペニンナという女性からひどいいじめに会い、深く傷つきます。しかし、彼女は、先に挙げた三つのどの行動もとりませんでした。彼女がとった行動は神の前に「心を注ぎだしてひたすら祈る事」でした。なぜでしょうか。彼女は「神は、どんな心の傷も受けてとめて下さり、いやして下さる方」と知っていたからです。。彼女は祈りの中で「神のいやし」を体験し、心は平安になり、顔は明るくなり、新しく歩み出したのです。
「イエス・キリストのお受けになった傷によって、あなた方はいやされました」
(1ペテロ2章24節)
 先に記したある人の言葉に、私どもは、神のいやしを体験し続けている者として、次のように付け加えたいのです。「生きる事とは傷を受ける連続であるが、神のいやしを受ける事の連続でもある」。

「高崎山の猿」

 大分市の西の端にある高崎山には野生の猿が群生しています。観光の名所にもなっている。高崎山の猿を観光の目玉としてお客に見せるようになったのは、随分前の事で、当時の大分市長の上田保(熱心なクリスチャンです)という人の尽力によるものです。
 戦後まもない頃です。大分市にこれと言った観光名所がないので、高崎山の野生の猿を観光客に見せようと上田市長は考えました。どうすれば、猿が降りてくるのかも知らずに、とりあえず、ほら貝を持って高崎山に出掛け、毎日ほら貝を吹いては、猿が山から下りて来るのを待っていました。ところが、一生懸命にほら貝を吹き続けても猿は全然、降りて来ません。やがて、大分市民の間から、上田市長はほら貝を吹く市長ではなく、ほら吹き市長だと冷やかされるようになりますが、しかし、彼は毎日、高崎山に通い続けました。
 どんな集団の中にも変わり者と言われる人物がいるものですが、猿の中にも変わった猿がいるだろう。百匹の中に一匹くらいは変わった猿がいて、ほら貝に誘われて山から下りてくれば、その後に、たくさんの猿が加わるだろうと考えて、毎日ほら貝を吹き鳴らし続けました。こうして、高崎山の中腹にあるお寺に通い続けた結果、いつのまにか猿が集まるようになっていったのです。
 人間の夢とか変化というものは、たいてい変わり者とかほら吹きと言われる人たちが、最初の人々の批判や嘲りなどに耐えて、実現しようと努力を続けていく中で実って行くものです。昔の地図には、人間が行った事のない所に龍のマークがついているものがあります。そこから、先は怖い場所という意味です。だから誰も行かない。ところが、百人に一人くらいの変わった人間がいて、そこにわざわざ行く。
「愚行権 right of stupidity」という言葉があります。法律がゆるす限りにおいて、愚かな事をする自由のことです。酒やたばこを飲みすぎて命を縮める自由。怠慢で人生を台無しにする自由。しかしシドニーオリンピックでアフリカの槍投げの有力選手「日曜日は決勝戦に行かずに礼拝に行く」自由です。
人間は愚かな一方で、賢すぎる。あえて、人に負ける事、人に良い方を譲る事、昇進や利得を回避する事、不利・不便・困難な道を選ぶ事‥かえって、こうした愚かに思われる事をする方が、道が開ける。人類の知恵と知識で危機に瀕した人生や社会や自然環境を救うのは、このような崇高な「愚行権」かもしれません。
 「柔和な人々は、幸いである。その人たちを受け継ぐ」(マタイ5:5)

「同音異義語」

ニュースで「あやまって人をはねる」とアナウンスされた時、ある子どもが「この人はゴメンね、とあやまって、人をはねたの」と質問。「誤」「謝」の勘違いです。聖書によく出て来て、意味が複数ある言葉を調べました。
1 おもう 思う‥これは「惟う」に最も近いそうです。
意う‥おもいめぐらす、推量して思う。
惟う‥一つの事に集中してよく考える。
謂う‥心に思う。
憶う‥心に思って忘れない(追憶)。推量して思う(憶測)。
懐う‥心にこめて慕い思う。
顧う‥振り返って思う(回顧)。
想う‥あるものの姿を心に描いて求め思う(想像)。
念う‥心にこめて忘れない。常に思う(念願)。
 ・詩編119:59‥私は、あなたの道を思う。
 ・エフェ3:20‥求めまた思うところの一切を遥かに超えて叶えて下さる。
この「思う」は、どの「おもう」でしょうか?
2 ゆたか
饒‥ありあまるほど多い(豊饒)。
穣‥穀物が豊かに実っている(豊穣)。
胖‥ユッタリとしてノビノビしている。
豊‥積み上げたようにタップリある(豊年/豊富)。
優‥ゆったりとしてこせつかない。ゆとりがある(優然)
裕‥満ち足りていて、ありあまる(余裕)。
2コリ9:12「感謝によってますますゆたかになる」はどれでしょうか?
3 したがうという言葉も聖書にはたくさんでてきます。
若う‥つつしんでその通りにする。
従う‥あとについて行く、おとなしくしたがう、たずさわる。
順う‥よりしたがって、たがわない。
循う/遵う‥道理や法則などにそいしたがう。
率う‥そいしたがう。
遜う‥すなおにへりくだってさからわない。
随う‥他の者の意に任せて、その通りについて行く。
殉う‥身を捨ててつきしたがう。
 先人の洞察の深さ、広さに驚かされ、感謝します。

「受けるよりは、与える方が幸いである」

〇今日アメリカだけでなく世界第一の小売業社となったウォルマート社は、創業時に「返品自由」の販売方針を打ちだしました。領収書がなくても、客が現品を持って来たら、代金を返したのです。当時も領収書があれば返品は可能ですが、これを徹底して実行したところは他にありませんでした。それも笑顔と喜びをもってです。当初、販売された 商品10%が返品されたそうです。 
しかし、店員が笑顔で、気持ちよく応じてくれたため、そのお客の10人中9人が返品で来店したときに、返した商品の2倍の額のものを買って行ったというのです。さらに、そのような客たちは1人あたり平均17人に、この店の宣伝をしたというのです。もちろん、返品に来た1%の人は悪意でしたそうです。ウォルマート社はそうした返品のマイナスなど問題
にならないほどの収益を上げました。人の求めを超えて応えるということは、イエス様の御言葉「だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」「だ
から、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者(=聖書)である。」そして語る言葉としては,パウロの「いつも、塩で味付けられた快い言葉で語りなさい」を思い起こさせます。
〇九州の総面積程の広さのパレスチナに二つの湖があります。ガリラヤ湖(海抜マイナス200m)ハート型をした諏訪湖ほどの美しい淡水湖です。ヘルモン山(標高2815m)の雪解け水につながる四つの源流を持ち、その水はヨルダン川に流れ、やがて、死海に注ぎます。イスラエルの「生命の水」となっています。
一方、死海は海抜マイナス395mのところにあり世界で一番低い湖で、その面積は945㎢。琵琶湖の1,5倍ほどです。塩の濃度は26%で、普通の海の6倍ほどです。アラビア平原の岩塩が溶け込んでいるそうです。
死海には名前の通り生物は全くいません。水は流入するのですが、亜熱帯の気候ゆえに大量に蒸発してしまうのです。
この二つの対比は象徴的です。絶えず源流から水をもらって、それをヨルダン川に注ぎ与えて行く事によって、漁業の宝庫となり、生命の水源になっているガリラヤ湖。他からもらってため込むだけで、他に与えないで、蒸発して塩分が濃くなって生き物の住めなくなった死海。「受けるよりは、与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)

「待つこと」

人間と神との最も基礎となる関係は、「待つ」ということです。だれでも、何かを待ち望んでいます。暖かい春、明るい朝、子どもの成長、事業の成長‥そして、教会の成長。
聖書の民も待ちました。ノアは洪水が終わるまで一年間、アブラハムとサラは子どもが与えられるまで25年。イスラエルの民は約束の地カナンに入るために400年。待つことは誰にとっても好ましいことではありません。しかし、この「待つ」ことについて聖書は大切なことを私どもに教えています。
1 希望
農家は土を耕しながら、種を蒔きながら、草を刈りながら、収穫を期待します。その希望がなければ、途中で仕事をやめるでしょう。私どもも同様に「主にあって、待つ人は願いがかなえられる」ことを期待しつつ、希望を学びます。
2 忍耐
今すぐに願いがかなえられるようにと、焦る気持ちに負けないように、またすぐに収穫ができなくて、ガッカリして全部やめてしまいたい、という気持ちに負けないように忍耐をもって待つことの大切さを教わります。
3 上手に時間を用いる。
農家は種を蒔くべき時に上手に蒔きます。草を刈るべき時に、上手に刈ります。私たちも同様に収穫ができるように、待つ時を上手に用いたいものです。“たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。”(ガラテヤ書6章9節)
 
“そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。”(ロマ書5章3節~5節)神を思い続けて‥わたしは主の御業を思い続け いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながらあなたの御業を思いめぐらします。神よ、あなたの聖なる道を思えば あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。” (詩編77篇)

 (福音コーナー)「内に外に高齢化 しかし」

“だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えて
いくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます”(Ⅱコリ4:16)
 現在、日本は国民の四人に一人が65歳以上となり、百歳以上も六万人。すでに高齢化社会ではなく、超高齢化社会と呼ばれます。ある地域の敬老会では、以前は70歳以上の方をお祝いしていたそうですが、ほぼ全員がひな壇に並んだ、と言われます。
翻って教会はどうでしょうか。やはり高齢化は教会の現実です。教会から子どもたちが少なくなり、教勢面でも停滞した状況です。個人の信仰生活を見ると、思うような奉仕ができなくなり、年金生活ですから献金も減らさざるを得なくなる…。最近、このようなエッセー(短文)を読みました。
潮風が吹き付ける海岸に立つ木々があります。低い木は、まるでスクラムを組んでいるようにして、強い風に耐えています。もしも、その中で一本の木が、大きくなろうと抜け駆けをして枝を伸ばすと強風を浴びて枯れることになります。
 強風を受ける枝は、傷つきやすくなります。風ばかりではなく、風によって飛ばされた砂や小石が木を傷つけます。その傷口から風は水分を奪います。また、そこから塩分が入り込み、木にダメージを与えることでしょう。風を直接に受けた枝は枯れ、かくして木々は枯れ、かくして潮風の吹く方向の枝は削ぎ落されてしまいます。
 このような木々が集まって、風に耐えた集団が、海岸にはできるのです。しかも、その集団の一本の木が潮風に負けて枯れてしまうと、そこから潮風が、その小さな森の中に入り込むようになり、枯れる木が増えてしまいます。
 私は、この海岸の森の姿と、教会の姿とが、重なって見えて仕方がありません。海岸の森にある木は、一本たりとも枯れてはいけない存在です。
また、たとえ弱い一本であっても、そこにその一本があることで、風を避けるためにかけがえのない役割を果たしていることになります。抽象的な理論ではありません。あなたが大切なのであり、あなたが必要なのです。
しかも、しばしば「森は海の恋人」とも言われます。森が海の環境を守っているのです。
 高知伊勢崎キリスト教会に集う一人一人が、この森の木の一本一本です。私たちは、人に守られていると同時に、人を守るための役割も与えられているのです。

 

 「教会の全体と部分 ②」

(捨てて従う)
キリスト者の生活は一つの点、主の日に向けられた生活です。キリスト
者は主の日のために生活のスケジュールを立てます。主の日を確保するた
めに仕事・家事のやりくりに苦心し、確保された礼拝に集うのです。
これがキリスト者の生活のサイクルであり、狂わしてはならない信仰者
の生活のリズムなのです。しかし、私どもの身辺には、このサイクルを狂
わすイロイロな出来事・状況が起こってきます。私どもの信仰生活は、そ
の時の状況に左右され、強くなったり、弱くなったりするようなものなの
でしょうか?真の信仰生活は身辺にどのような変動が起きても左右されな
い“したたかさ”を、その内に持つものです。
誕生から死に至るまで、一貫して貫く太い線、キリストと父なる神への
服従です。この線の確保のために是非必要な事、それが「身辺の整理」で
あり「捨てる視点の確保」です。
「永遠の生命を得るために、どんな事をしたら良いのか」と問うた富め
る青年に主イエスは目を留め、慈しんで言われました。「もしあなたが完
全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々
に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従
って来なさい」と、「捨てて従う」これこそ、礼拝者の姿です。
では、どこまで捨てれば良いのか?私どもには家庭があり、社会生活が
あります。それまで捨てよ、と聖書は言うのか?そうではありません。聖
書が捨てよ、と命じるのは「神を信じる」と言いながら、自己の都合を前
面に押し出し、主への服従を第一としないその自己中心を捨てよ、と言う
のです。こうして、身辺の整理は完了し、捨てるべきモノは捨てられ、礼
拝中心の生活が確立します。
これは、不自由な、息苦しい生活ではありません。生き生きとした生活
です。なぜなら、神がその中心にいて下さる生活だからです。
あの人は何も持たずにきたが、会う喜びを残して帰った。
あの人は何も持たずにきたが、互いの理解を深めて帰った。
あの人は何も持たずにきたが、心の富の尊さを教えて帰った。
あの人は何も持たずにきたが、前途に希望をもたらして帰った。(河野 
進)

 

 「教会の全体と部分 ①」

神は人を創造された時「はなはだ良かった」と創世記に記されています
。人間の身体が本当に均整の取れた何一つとして無駄なく造られており、
さらに各部分は全てが関係づけられていて全体として機能しています。歯
一つ痛んで身体全体が痛む事を私どもはしばしば経験します。
パウロは、教会はイエス・キリストの身体であると言っています。それ
は、教会員一人一人の存在は欠くべからざる存在であり、一人が病む時、
それは全体の痛みになるということです。
「私は教会の活動に何の働きも必要とされていないから」と思われる兄姉
。オーケストラのパートを担当している音楽家が、自分のパートが終わっ
たから“~では失礼します”と言って中途退席する事は出来ません。最後
まで、その場にいる事が必要です。教会の礼拝にも同じ事が言えます。教
会の皆が(全体が、全員が)その場に揃っている事。その事は何と美しく
穏やかな事ではないでしょうか。
教会(聖霊)が私どもに与える恵み(癒し、励まし、喜び‥)は、その
ような礼拝が確実に捧げられている、という事と密接に関係しています。
 そのために、神は安息日を設けました。人の手の業の停止を指示されま
した。安息日とは、元々「止める」という意味を持ちます。この日に、私
どもは労働を中断し、聖なる方に目を向けます。聖なる方とはイエス・キ
リスト、そして、その父なる神です。
人は自己保存の欲望のために労力を厭いません。しかし、間断なき労働
の継続は肉体を消耗し、精神の摩滅を招きます。神が安息日を設定された
のは人を人として生かすためなのです。人は、その労働から解放され、人
としてある事の意味を神と向き合う事の中で知ります。
ある神学者曰く「安息日とは、我々をして、自己の感情と業とに対して
死なしめ、神の国について黙想せしめる日である」。
人は礼拝・祈りの中で、神を拝する事によって罪を知り、いかにして罪
から救われる(救われた)かを知らされます。その日なくしては、人は神
も知らず、罪を知らず、救いも知らされないままに生きる(死ぬ)しかな
いのです。「神は愛である」「神は真実である」。その為に、その独り子
を世に遣わされました。真実な方に真実をもって応えるという熱さを私ど
もも持ち続けたいものです。

 「バッハを紹介します」

 ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)は、ドイツ・チューリンゲン地方のアイゼンナッハに生まれました。アイゼンナッハ近郊には、ルターが聖書のドイツ語訳を完成させたヴァルトブルク城がそびえており、バッハはルター派の信仰をもった敬虔なクリスチャンでした。
 バッハは9歳の時にお母さんを亡くし、10歳の時にお父さんとも死別します。その後、14歳年上のお兄さんのもとに引き取られ、オルガニストをしていたこのお兄さんから音楽の教育を受けました。
子供の頃から、バッハは非常に勉強が好きで、たとえば、夜、鍵のかかった戸棚の隙間から手をつっこんで、お兄さんの楽譜を取り出して、月の光で楽譜を写したそうです。バッハ自身、「私は非常によく勉強した。だれでも私ぐらい勉強すれば、私と同じぐらいにはなれるだろう」と言ってます。もちろん、バッハが努力の人だけではなく、優れた才能の人であ
ったことは間違いありませんが、それほど勤勉であったということなのです。
 18歳のとき、バッハは、アルンシュタットという町の教会オルガニストになります。この頃から本格的な音楽活動が始まり、32歳で宮廷楽士になり、38歳でライプツィヒの聖トーマス教会の音楽監督になります。バッハは68歳で天に召されるまでこの職を続けました。
 ルター(1483-1546)は「音楽は神のすばらしい賜物であって、本来神に発するものであり、すぐれた音楽は様式を問わず神を讃えうる」と言っています。新生讃美歌にも「神はわがやぐら」をはじめ、6曲おさめられています。ルターを心の師と仰ぐバッハの宝石のごとき曲の数々も、すべて神に捧げるために書かれたものでした。
 彼は自筆楽譜の最後に「SDG」というサインを残しました。「SoliDeo Gloria」の略字で「神のみに栄光あれ」を意味するラテン語です。弟子たちに教えるときにも、「音楽の目的は第一に神に栄光を帰し、そして、隣人に喜びを与えることだ」と繰り返し語ったと言われます。酷暑も終わり、やっと秋、キリスト教の歴史にも思いをはせたいものです。
 10月号の「世の光」の中に“「SDG」と「SDGs」”と言う短文がありました。なるほど、と思いました。どちらも、永遠を見つめる(大切にする)思い・願いを私たちに示すものです。

 

 


「祈り」

(朝の祈り)

神さま、朝を与えて下さってありがとうございます。今日、一日、元気よく、明るく生活できるようにお守りください。間違った事や悪い事をしないように導いて下さい。正しい事や良い事には勇気をもって進んでする事ができますように力を与えて下さい。

 このお祈りをイエス様のお名前によって祈ります。 

〇朝食・昼食前の祈り

 我が家の子どもの高校入学のオリエンテーションの時、教頭先生が三つのお願いをされました。学校の先生の悪口を言わない。朝食は必ず食べる、弁当はできるだけ手作りで、と。三つのお願いの内、二つが食事に関する事です。食事は人間形成にとって大切な事です。しかし、信仰的にも、そうです。

「主の晩餐式」はイエス・キリストを中心とした食事会の事であり、「交わり」も食事を共にする集会です。単なるエネルギー補給ではありません。命をいただくという信仰的な業です。

(朝食前の祈り)

 恵み深い父なる神様、今朝もここに私たちの生活に必要な充分な肉の糧を与えてくださり、心から感謝します。これによって、今日ひと日も、主に喜ばれる生活と奉仕が全うされますように、お守りください。あなたは常に、私たちに必要な一切のものを備えて下さいます事を感謝いたします。

 願わくは、食卓の中心におられる主よ、私たちが共に心を開き、主にある感謝と喜びの交わりを深めていく事ができるようにお願いします。また、今も貧しさの中におられる人々を憐れみ、なくてはならない必要を備えて下さい。

養い主イエス・キリストの御名によって祈ります。

(昼食前の祈り)

 命の与え主なる神よ。今ここに豊かなる昼食を備えて下さった事を感謝します。あなたは霊と肉との主でいらっしゃいます。どうか、この豊かな恵みに応えて、自分の事だけでなく、進んで他の人を愛し、また、地上の任務を果たす事ができますように、お導きください。

 願わくは主よ、私たちが常にあなたによって力づけられ、養われ、守られて、思い煩いを捨てて、安全に仕事(勉学)にいそしむ事ができるようにしてください。残された半日も、常に主にある喜びにあふれ、主の前を、主と共に歩む事ができるようにして下さい。

この昼食を感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 

 

「神を畏れることは知恵の始まり」

 

 “アメンボ・キッズ”という言葉をご存知でしょうか。現代の青少年を表現する新語で、与えられた大量の情報をスイスイと器用に泳いでいる様をイメージする言葉です。

 

アメンボとはよく言ったものです。そのか細い体つき、軽さ、決して水の深みにまでは潜ることはしません。したがって、おぼれることはありません。大人ならばおぼれてしまいそうな大量の情報を必要な部分のみ探りをいれて利用する。

 

 情報が多いということは、選択枝も多いということを意味します。そこに労力が必要となりますが、さらに、そこには、その大量の情報を処理するための攻略本(いわゆるマニュアル)が威力を発揮します。できるだけ労力をかけずに正解を見出す。

 

 ですから、選択枝が多いとは言え、アメンボ・キッズは、その多くの選択枝から自分で決断し、自分で選び取っている、というわけではありません。結局は与えられた選択でしかないのです。

 

 ある社会学者は、そのような若者が生まれることを評価します。「全ての物事が相対化された時代」に生きる知恵である、と。その上で、「知識」と「知恵」を峻別します。知識は、情報を意味します。そして、知恵とは、その情報を整理整頓し、自分にとっての意味を付与する機能です。そして、知恵は、結局試行錯誤(trials and errrors)によってしか、つまり、試み、そして、失敗する事によってしか身につかないものです。

 

〈アサギマダラのお話〉

 アサギマダラは、春に北上し、秋に南下を繰り返す「渡りをする蝶」として知られています。研究のため山形県蔵王山で放たれたアサギマダラが日本最西端の与那国島で捕獲されました。何とその移動距離は、約2246㎞。

 

 蝶は風に乗り、大空を飛び、人の思いを遥かに超えた旅・長距離移動をします。聖霊は「風」にたとえられます。私たちキリスト者は、聖霊に助けられ、運ばれ、様々な出来事を乗り越え、人知を遥かに越えたところへと旅する者です。

 聖霊の風に乗るには何が必要でしょうか?自分の古い習慣に土台を置くのではなく、神の言葉に置く事です。御言葉によって培われる力を得る事です。

 

 表題の「神を畏れることは知恵の始まり」は箴言1章7節の言葉です。現代を生きる指標としての信仰の大切さを思わされます。 

「エルサレム使徒会議の意義」

 使徒言行録15章は、教会史上初の教会会議と言われる「エルサレムの使徒会議」について記されています。内容としては、アンテオケ教会とエルサレム教会の代表者たちが初めて一同に会して、両教会の協力体制構想を巡って協議し、一定の結論を得た会議と言って良いと思います。会議を開くキッカケとなった出来事は~「ユダヤから下って来たある人々」が、上から目線=本家意識丸出しで分家の異邦人中心のアンテオケ教会に「あなた方も、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、救われない」と。その事をめぐって、激しい論争
が生じた、と言う事です。
実際のところは、これまでにも幾度となく生じた論争であります。割礼の問題。律法をめぐる神学的な課題。どこかでハッキリとさせておかなければ、先に進まない。そこで代表者たちが集まり「協議するために集まった」訳であります。 時代の大きな変わり目、国際会議が事あるごとに行われます。しかし、そこでは、おそらく私たちが知りえない水面下での政治的な駆け引きが繰り返されているのだろうと推測します。「協議する」と言っても初めから、結論ありきに思えますし、また、時には数・力の論理で意見・異見を封じ込めるやり方さえ「ルールに則っている」と言われます。
 私たちバプテスト教会は、まさに会議を大切にする教会です。小さな会議に始まり、連合、連盟の総会に至るまで、私たちは会議を通して教会形成を成しているとも言えます。だからこそ、私たちが教会で、どのような質の会議を開いているかが問われます。そして、その時、ヒントとなるのが「協議する」と言う言葉が「イデイン:見る」と言う言葉から生まれ「見極める」という意味を含んでいる事です。使徒や長老たちは、問題を「見極める」ために集まった。神の御心がどこにあるのかを見極める事に他なりません。
「私たちは、これまでこうやって来た!」「私たちはこう考える」という意見を交わす中で、一体神様は、今、何を求めておられるのか?神の御心を見極める事に苦心する事こそが、会議において重要な事です。 そして、使徒言行録のこの会議の後15章36節から「世界宣教の時」という第二部に突入します。すなわち、福音が初めて、地中海を越えて、
ヨーロッパ世界へ至るのです。
 教会の宣教の営みには躓きが満ちています。プロテスタント教会の歴史は分裂の歴史であると言っても過言ではない、と思います。激しい対立と分裂。私たちにとってマイナスと思えるような出来事であり、悩みに直面させられます。しかし、そのような人間の営みを越えて、神の導きの中で、教会の宣教は導かれ進んでいるのです。その事を大切にしたいものです。 


「“いちじく桑”そして“祈りの手”」


聖書の中に、いちじく桑の木に登った徴税人ザアカイがイエス様と出会うというお話しがあります。もし、このいちじく桑がなかったら、ザアカイは、イエス様を見ることもなく、声をかけられることもありませんでした。いちじく桑の木に登るザアカイですが、そこに、いちじく桑を、その日のために育て、その場所に置いてくださったのは神様です。 

 

私たちがイエス様と出会う時に登っている、いちじく桑の木とは何でしょうか。私たちは毎週日曜日に神様に礼拝を献げています。けれども、私たちがここに集っているこの場所に教会があるということは、そこにいちじく桑の木にたとえることのできるような、神様の導きがあることを思います。 

 

イエス様はザアカイに、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言いました。恐らく、ザアカイは、泊めるような準備など、何も出来ていなかったでしょう。イエス様と出会うこと、迎えるということは、何か、私たちが準備をして待つということではないのです。 

 

神様の時の中で、「失われたものを捜して救うために」いちじく桑の木は育てられ、その時を待っていたのです。待っているのは、常に神様です。その神様の時を、ザアカイはいただいたのです。 

 

デューラーの描いた絵画に「祈りの手」というものがあります。絵描きを目指す友人が、デューラーを一人前の画家にするために、自分は鉱山で働き、仕送りを続けた。そのおかげで、デューラーは立派な画家になるのですが、友人は、その過労で、手を悪くし、絵筆も握れなくなりました。

 

デューラーはその事を知った時、友人に「お願いだ、君の手を描かせてくれ、君のこの手のおかげで今の僕はあるんだ。君のこの手の祈りで、今、僕は生かされているのだ」そう言って、自分のために犠牲を払って働き続けてくれた友人の手、彼はカンバスに焼き付けたのです。それが「祈りの手」です。

 

私どもも、私どものために祈り、献げて下さった方々の手があったからこそ、救われ、今あるを得ています。私どもキリスト者の背後には必ず「もう一人の方」がいるのです。沢山の祈りの手が必要です。

 

 「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。…人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』」 (ルカ19章9~10節) 


「故北原末男さんの遺稿より③」

 
〇「礼拝の意義」
真に神を信じ、神を基礎とする生活は自ら神を礼拝する。真の信仰生活
は、間断なき礼拝の生活である。そのために、まず神の実在を確信し、礼拝の対象の価値を知らねばならぬ、即ち、キリストによって自己を顕し給うた神のみ我らの礼拝の対象である。この礼拝精神は、必然的に形となり、キリストを中心とする聖徒の交わりは自ら公同礼拝となって現れる。この公同礼拝は、我らの特権であり、義務である。而して、公同礼拝は
教会精神のバロメーターである。礼拝の場所たる会堂は説教を聞くところではなく、神を礼拝するところであって、説教は礼拝の一部であって全部ではない。我ら心を盡し、霊と真を以って神を拝せん。

〇「祈祷会の意義」
使徒言行録を読むと、初代教会の人々が、一つ所に集まって、心を合わせて、ひたすら祈りをしていたことを伝えている。そして、これは初代教会の大きな特色である。祈祷は個人の信仰生活にとって、肉体が食物や空を必要とするごとく、なくてはならぬもので、「教会」の信仰生活にと
っても祈祷はなくてはならぬものである。主キリストを中心とし、共に祈り合うところにこそ、真の教会がある。
祈祷会は、主にある信者の一致ということから重要で、主はそのために、祈り執成し給うのであります。(ヨハネ17:11~22)。祈祷会は、主に於いて、心を合わせて祈り合う精神の具体化したもので、私どもは、真の意義で教会を重んじます。祈祷会は、我らの恩恵であり、また、責任であります。

*参考聖書個所 使徒言行録
1章14節 2章37節~42節 4章31節 6章4節 等
〇「今日の宣教」宣教一途
「全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えよ、信じてバプテスマを受ける者は救われる」宣教は、イエスの御命令である。我らは、これに従わねばならぬ。弟子
たちは、出て行って至るところで、福音を宣べ伝えたとある。宣教の場合、確信が必要である「あの方が罪人であるかどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲人であったが、今は見えると言うことです」と、一人ひとりイエスの恵みに対して確信を持ち、臆することなく、宣教せば、主も共にいまして、お約束を堅持し給うであろう。


「故北原末男さんの遺稿より②」

 
④時間について。
時間は余裕をもって、遅刻はせぬようにしたいものです。遅刻は、他の
人の妨げとなるばかりか、礼拝全体の緊張を破り、やがて、自分自身、悪
習慣に堕するようになる。 
それでは、どうにか行けるが遅れるのはいけないから、いっそ、欠席し
よう等を言う人がいる。しかし、その人は遅れても出席する方が良い。こ
こでは、遅れぬようにすれば出来るものを努めないで、遅刻することを言
っているのである。
⑤礼拝の中心である宣教に接する態度について考えてみましょう。
 まず、真の期待を以って、即ち、聖言を期待して接することは言をまた
ぬことです。間違った期待を以って宣教に接しても無意味ですし、宣教に
聖言以外のものを期待して、しかも得られぬと言って呟き、教会を離れた
りすることは、八百屋へ魚を買いに行ってなかったと憤慨すると同じく無
茶であり、我儘であり、非常識です。
 真の宣教、難しい課題です。真の宣教の勤めに与るには、まず宣教者自
らが、その方の前に立っていなくてならない。単なる牧師の意見発表や講
演とは異なるのです。期待を以って宣教に接する。それは、即ち、傍観者
として、見物人として宣教を聴いても何にもならない、と言うことです。
 次に、宣教に対しても「信仰的な準備」すなわち、行き当たりばったり
の聴き方をするのではなく、祈り心で備えをして聴くべきでしょう。準備
なくして宣教は徹底しないのです。
⑥次は、最も重要なことと思いますが、宣教を「私への言葉」として聴く
ことは、大切なことです。宣教は誰にでもなく、実に私に向かって宣べら
れており、宣教においてかたられる聖言は、誰でもなく、この自分の生き
死にに関する聖言として聴かるべきで、そこで裁かるる罪は自分の罪であ
り、そこで赦しの言を受けている罪人は自分であります。
⑦会衆の中には、宣教者よりも、もっと博識のまた、深い人生経験を持つ
人は多いと思う。あるいはまた、宣教者の中には、口の重い、話すことの
下手な、話の内容も秩序を欠くような者もおります。
  しかし、それらの人間的優越によりて、傲慢になることなく、
「実れば実るほど、垂る稲の穂」の謙遜さを以って、宣教に接したいものです。謙
遜に求むる者には、ただ一つのことも導かれて感謝できるのであります。 (続く)


「故北原末男さんの遺稿より」

 故北原末男さんが、生前、特伝や講演会等のために執筆していた遺稿か
ら、三回に分けて紹介します。故人の信仰、人となりが伺えます。
「礼拝への心遣い」
 私どもは、真にキリストとの交わりがなされるのは教会に於いてのみと
信じます。そして、教会に於いて最も重要な神の言が宣言され、恵みが鮮
やかに示されるのは礼拝であります。私どもの行っている礼拝が単に説教
のみに偏することなく、真の礼拝として守られるために、即ち、「説教を
聞く」のではなく「礼拝を捧げる」ために、私どもは次のような点を謙虚
な思いで反省しつつ神の前に立ちたいものです。
 
まず私どもは礼拝への準備をせねばなりません。その中で最も大切なも
のは、1 信仰的準備でしょう。聖日の朝、あなたは良く祈り、聖書を読んで礼拝に
備えねばなりません。その祈りの中に、ぜひ次の事を祈っていただきたいもの
です。
(イ)説教者のため (ロ)自らのため(ハ)教友、および、求道者のために。
これだけの準備を以って礼拝に列するならば、その時、あなたにとって、どれだけ
感謝な礼拝となるでしょう。出来得れば、少なくとも五分前には、信仰的な準備が済んでいたいものです。そして、聖日くらいは、礼拝前に、新聞・小説等を読むことをやめ、その時間を聖書を読むことにすべきでしょう。
2 聖書と讃美歌についても心を配りたいものです。
   まず、聖書と讃美歌は自分のものを持参することです。教会に備え付けてあるものは、    初めて来た人のために用意されているものであって、信者は遠慮すべきです。面倒とか重いと言うことは怠け者の言葉で、聖書の借り物をしていると信仰も借り物になるでしょう。 
また、重くても旧新約聖書を持参して使用したいものです。教会で聖書という時、旧新約聖書のことです。新約聖書だけで間に合わしていることは悪い習慣です。 
 
3 服装は形式的にあれこれ言うべきものではありません。むしろ、家庭の主婦が
  エプロン掛けのままでも集まれる教会でありたいものです。唯、余り華美
  やだらしない服装は慎むべきでしょう。要するに、その人が活ける、聖な
  る、人格者なる神の御前にあるために最もふさわしい身なりで礼拝したい
  ものです。(次週に続く) 


「兎と亀」

日本の昔話に兎と亀の話があります。兎と亀が「向こうの小山の麓」をゴールに、かけくらべする話です。だれが考えても兎が勝つところですが、兎は、どうせ亀は追いつけまいと余裕の一眠りをしてしまいます。結果、兎と亀の距離はどんどん縮まり、ついには、亀が兎を追い越して勝ってしまったという話です。どうしてそんなことになったのでしょう。

兎が怠け者だったからとか、自己過信があったとか…。しかし、何を目標としていたかということも、大切だと思います。
兎の目標は亀に勝つことでした。だから、亀がどのくらいのペースで、今どこにいるか、ということばかりを考えていました。しかし亀の方は、兎に勝てるはずがありませんから、目標は、あくまで「向こうの小山の麓」まで完走することだったわけです。
 どうも私たちは、この兎のような感覚をもってしまうことが多いようです。目標に向かって走っていくというより、まわりがどうであるかということに左右されます。まわりばかりが気になって、本来、完走すべき道のりを走ることができなくなってしまうのです。
 私たちはすぐに人と比べたがる癖をもっています。すぐに批判的になってみたり、逆に劣等感に悩んでしまうこともあります。いつのまにか、ゴールを目ざす生き方ではなく、まわりの存在が自分の目標にすり替わってしまい、一喜一憂していることが多いのです。
 パウロはこう言っています。“兄姉たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです” (ピリピ書3章13~14節)
私たちの人生は、永遠の天の都というゴールを目ざす生涯なのです。後ろのものを忘れ、一歩ずつ前に進む人生なのです。亀のように歩むのがゆっくりでも気にしないことです。

 「なんと歩みの遅い人」と言われようが、大切なのは、イエス・キリストが私とともに歩み、一緒にゴールをしてくださるということをしっかりと信頼し、歩むことなのです。
 

「二人の大統領」

 旧聞になりますが、2016年に二人の大統領が来日されました。一人はオバマ大統領。もう一人はムヒカ前大統領です。
オバマ大統領は、現職の米大統領としては初めて広島市を訪問し、平和記念公園で献花。その演説で、原爆の被害に向き合う言葉を繰り返されました。演説に立ち会った被爆者とも笑顔で言葉を交わされました。特に、異例だったのが、犠牲者についてのくだりで「韓国・朝鮮人」「アメリカ」についても言及したことです。
先立つ四月「世界で最も貧しい大統領」と言われる南米のウルグアイ前大統領ムヒカ氏が来日されました。ムヒカ氏は、青年時代に平等な社会を夢みて政治活動、投獄4回、脱獄2回。銃撃戦で6発撃たれて重傷を負い、10年の軍の独房暮らしも経験。孤独で何もない中でも、抵抗し続け、生き延びることができたのは「人はより良い世界をつくることができる」という希望があったからであり、そして、孤独を嘗め尽くしたからこそ「人は独りでは生きていけない。家族や親しい人と過ごす時間こそが、生きるということ。孤独は人生で最大の懲罰」と悟った、と発言されています。
環境問題を話し合う国際会議でムヒカ氏は「根本的に見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだ」「石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。」と発言。
さらにムヒカ氏は現代のグローバリズム、消費主義社会に対して「現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです」と語り、「残酷な競争で成り立つ消費主義社会で『みんなの世界を良くしていこう』というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?」と問いかけ「私たちは発展・競争するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです」と指摘します。 
はからずも、世界の大国アメリカ合衆国と南米の発展途上のウルグアイの前大統領がこれからの世界の歩むべき方向性を私たち日本人に示してくださいました。
“平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる” (マタイ福音書5章9節)

河野宏一牧師の福音コーナー

  「 聴くことについて 」


イエス様は「私の愛する子」と呼ばれた御父に聞きつつ、祈りつつ昼夜を過ごされました。その御声をイエス様が耳にしたのは、ヨルダン川から上がった時(ルカ3:22)。また、その同じ声を山の上でも聞かれたのです。
「すると『これは私の子、選ばれた者、これに聞け』という声が雲の中から聞こえて」(ルカ9:35)。
 神から愛されているという信頼によって、イエス様はこの世界へ、自由に歩み入る事ができたのです。
人々はイエス様を賞賛し、「ホサナ」と叫びました。しかし一週間後には「十字架につけろ」と叫びました。しかし、これらの叫びの只中でイエス様は一つの事を知っておられました。「私は愛されている子、わたしはに喜ばれているのだ」と。
 神と、神のみと共にいる事が(場が)私たちにとって、どうして必要なのでしょうか。それは、私たちを愛する子と呼んで下さる方の御声を聞く事が出来る場所だから大切なのです。イエス様が愛されているように、私たちも愛されているのだと。あの同じ御声が私たちの為にもある。
私とは何か?誰か?「愛されている子ども」です。私たちが、その御声を最も深い真理として聴くという事を確立しなければ、私たちは、この世界で自由に歩く事が出来ません。しかし、この聴くという事は、容易ではありません。イエスは夜を徹して祈られました。
祈り、その理由は何か?祈りたいと感じるから、あるいは、祈りが大き洞察を与えてくれるからではなく、ただ従順でありたいから、私たちを愛する子と呼んで下さる御声を聞きたいからなのです。
この世界に生きる本当の自由は、私たちが愛されているという自分の存在についての真理を、ハッキリと聞く事から始まります。そこに祈りが不可欠なのです。
そしてまた、宣教の業もここから始まるのです。愛されているので、私たちは、この世界に出て行き、人々と語り合い、そして、その人々にも愛され、選ばれ、祝福されているのだと気付いてもらいたい。いかに自分たちが深く愛されているかを知れば知るほど、人間としての兄弟姉妹たちが、いかに深く愛されているかが、いっそう分かるようになるという事は、神の愛の信じがたい奥義です。
 私たちは祈らなければなりません。私たちを「愛する子」と呼んで下さる御声を聴かなければなりません。

河野宏一牧師の福音コーナー

  「 こころに歌を持つ 」

癒しが流行しています。厳しいストレスに皆が悲鳴を上げている。ある精神科医が「病める“療法”社会」と題して「現代では〇〇療法という言葉が溢れている。伝統的な転地療法/絶食療法/温泉療法に始まり絵画療法/芳香療法アロマセラピー/遊戯療法‥さらにはカラオケ療法/高原の空気を吸う呼吸療法‥息をするのも教えてもらう。何としんどい社会に住んでいる事か」と記しています。
 私共は、全く自然に力の入らない状態が取れたら、本当に楽だな!と思います。そして、自然体はどのような状態にも対応できる、という意味で、最も「強い」状態、とも言えます。二つの方法が聖書に記されています。

1 お任せする事です。
パウロは1コリント4章3節~4節で“私にとっては、あなた方から裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。私は、自分で自分を裁く事すらしません。~私を裁くのは主なのです”
 パウロは、自分を批判的に眺め、自分を評価するのではなく、全てをお任せする、と。「私は、私の出来る範囲の中で、片意地をはらずに、ベストを尽くして、生きるようにしているのだ。私を裁く(評価する)御方は、主御一人なのだ」と言っているのです。

2 心に歌を持つ事です。
現代人の心をある人は「歌=メロディーを忘れた理詰めの心」と言います。詩編の中には繰り返し「私は主に向かって歌う」という言葉が出て来ます。心に歌のある人は何と輝きに満ちている事でしょうか。
そして、新しい歌を主に向かって歌うこと。「新しい歌」と言う表現が、聖書全体で9回(その内6回が詩編)出て来ます。では、この「新しい歌」とは何か?
・その時代、時代に生まれて歌われた歌の事‥所謂「新曲」
・新曲ではないが神への救いの驚き、感謝、感動を新たな思いで歌う歌の事。
そして、主に贖われた者(救われた者)にしか歌えない歌(讃美)の事
~すなわち~
1)待ちに待った救いが来たという歓喜の叫びと共に歌われる歌の事。
2)終末論的な讃歌の事。つまり救いの完成を見つめながら歌う歌の事。
3)救いの感謝と喜びの歌、愛の交わりの歌、信仰と希望の歌の事。
詩篇147:1 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいか
に美しく快いことか。主は打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる。

 ハレルヤ!

河野宏一牧師の福音コーナー

週報に記載されている福音コーナーをご紹介しています。

「倦(う)まず、たゆまず」 2022年6月26日

 

「信仰生活は、無理せず、楽せず、手を抜かず」ある牧師が、バプテスマを受けたばかりの信徒に与えたアドバイスで、私も繰り返し使っております。

「生まれる」…それは本当に神秘的なこと、大きな喜びをもたらすことです。教会でもやはり新しく主を信じて、神の子として生まれる人が与えられるという事は、どんな喜びにも変えられない。天ではどんな喜びにもまさる喜びがある。今まで死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった、という大変革がそこにはある。私どもは、多くの主を知らない人々が主を知る事ができるようにと心から願っています。


 しかし、その後に「育つ」ということが続く。そしてこの育つプロセスは、多くの場合ずっと長いし、地味です。必ずしも劇的な変化が毎日起こっていくのではありません。毎朝、主の前に近づき、静まり、御言の中にとどまる、そんな繰り返し、毎週礼拝を守り、兄姉の交わりの中にときを過ごす、そんな積み重ねが、キリスト者を作っていくのです。 


「キリスト者には転機が必要だ。」と言います。聖書人物たちの実例も、偉人の生涯の証しも、その事を物語っています。確かに、主が私たちに悔い改めを、献身を、信仰を迫られる時に大胆に踏み出すべき、ここぞという時があります。

 

しかし、転機だけで信仰を育てることができるだろうか。もし転機しかなかったら、やけにバランスの悪いキリスト者しか生まれてこないでしょう。

 

わたしたちに必要なことは「今日歩む一歩は、必ずしも昨日と大きな差がないかもしれない。しかし、それが一ヶ月二ヶ月、一年二年と積み重なっていくときに、大きな違いになっていく。キリストの似姿を映すようになり、その品性が備わっていく」ことに信頼を置くこと。


 それは主とともに歩み、信仰の先輩たちとともに時間を過ごす中で形作られるものなのです。私たちは一生変えられ続けていく。地道に変えられ続ける。やがて主の御前に立って、そのみ姿を見、その似姿に変えられるその日まで、私たちには終わりはありません。信仰良書に触れたり、修養会に参加したり、またさまざまな学びを積み重ねていく。神は求める者に答えてくださる。与えてくださる。

 

”あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。”(パウロの言葉)

 

 

 

 

 

 

 

「天を見上げて地上を旅する」 2022年7月3日

 

「さあ、天を見上げなさい。星を数える事が出来るなら、それを数えなさい‥あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)

 

この御言葉から二つの事を確認しましょう。

 

第一に、天を見上げて生きていくように人間はデザインされている事。

 

ギリシア語で人間を意味する「アンスロポス」には「上を見上げる」と言う意味があります。自分の内側を見ても、横を見て人と自分を比べても、暗くて頑固で厳しくなり、うつむく事しかできません。

 

 上を向いて歩いていくとき、明るく柔和で優しい人に変えられます。人間は上を見上げて生きていくようにデザインされているからです。天を見上げる一番、楽な方法は仰向けになる事です。朝目が覚めた時、そのままに、仰向けで天を見上げればよいのです。天を見上げて主を待ち望むなら、新しく力が与えられ、元気に起き上がる事ができます。

 

 第二に、天(国)とは、どんなところか?天(国)は賑やかなところです。天国にはあまりたくさんの人はいないというイメージを持っている方が多いのではないでしょうか。しかし、全知全能の神は、そのような私たちの不信仰を突き破って、数えきれない人々を天国に招かれます。星の数ほどの人びと、誰にも数える事の出来ない人々を神は救いに招かれています。

 

 私は信じます。天国は賑やかなところです。神の言葉は、私たちの不信仰を突き破って、時が来ると出来事になる、と。私は信じます。万軍の主の真実と熱心によって注がれる聖なる神の霊によって、青年は幻を見、老人は夢を見、そして、私たちの教会に行列ができる事を。

 

この御言葉は、北極星のように不動です。ですから、この御言葉を指針とし、天を見上げて地上を旅するなら、確かな方向性を以もって旅ができます。現代の多くの過ち、その多くは、天を見上げることをしない、あるいは、忘れてしまい、目先の事に囚われて見るべきものを見失ってしまったことにあります。

 

そのような私たちには、閉塞感を突き破る神の言葉たる、北極星のように変わらない確かな御言葉が必要なのです。